日本のビーチバレーが今後進む道

研究員コラム
日本のビーチバレーが今後進む道
日本でビーチバレーがスタートしてから四半世紀がたとうとしている。スタート当初の日本のビーチバレーは、当時人気が絶頂だった6人制バレーの選手たちが年に一度のファンサービスで行うお祭り的な行事だった。特に1987年に初めて開催された第1回ビーチバレージャパンは、4,000人が収容できる仮設スタンドがコートの四方で囲み、それでも入場しきれないファンが長蛇の列を作り、結局1日2回の入れ替えを行って12,000人の観客が連日会場に訪れ賑わいを見せた。皮肉にもその記念すべき第1回大会を四半世紀たった現在でも追い越すことができていない。

そんなビーチバレーの最初の転機は、1990年に第1回ビーチバレージャパンで優勝し、当時の全日本のキャプテンも勤めていた、川合俊一が27歳の若さでプロビーチバレー選手に転向し、ロスアンゼルスに拠点をおいてアメリカのプロツアーに参戦したことだ。当時の日本ではビーチバレー自体全く認知されていなかったが、人気・実力的にも日本のトップクラスだった選手がビーチバレーに転向したことで世間の注目を集めた。

その後1992年のバルセロナ五輪で公開競技となり、1996年のアトランタ五輪にはビーチバレーがオリンピック競技の正式種目になった。日本のビーチバレーが2度目の転機を迎えた。

それまではビーチバレーだけで生活ができるような選手はいなかったが、オリンピックの正式種目になったことで企業がスポンサーにつくようになり、一部の選手たちの環境も変化した。

この一部の選手たちは元々6人制バレーで企業に所属していた選手で、給料を得ながらビーチバレーだけに集中してプレーすることができた。2000年のシドニー五輪で女子チームが4位入賞を獲得しビーチバレーもプロスポーツとして確立できる兆しが見えたが、国内ツアーや選手の状況にあまり変化はなかった。

そんな中3回目の転機がいきなりやってきた。浅尾美和が空前のブームで社会現象にまでなるほどの人気を得て、ビーチバレーを一般の方達にも認知してもらえるようになった。競技力の部分でも昨年開催された北京オリンピックで湘南ベルマーレ所属の白鳥勝浩とパートナー朝日健太郎の日本チームが9位に入り、ロンドンオリンピックではメダル獲得を狙えるポジションまで成長している。

しかし、日本のビーチバレーはまだまだマイナースポーツで、今後様々な部分で改善していかなければならないと思っている。

強化・指導普及・育成・運営等やらなければいけないことは山積みですが、当面は若年層からの強化に力を入れて世界に通用する選手を多く輩出することと、同時に国内ツアーを充実させることが今後の課題だと思っている。

ビーチバレーは経験がものをいうスポーツで若い選手がなかなか結果を残せない競技である。若年層からの強化に力を入れ、能力の高い選手に若いうちから多くの経験を積ませて日本人が元々持ち合わせている器用さや繊細さを極めさせ、緻密なプレーや戦略作りをきっちりすることで日本のビーチバレーも勝機をつかめると確信している。

その若い選手たちが実力をつけたころには、国内ツアーの獲得賞金だけで生活ができるような環境作りも大切な部分である。

そういった意味でも産業能率大学が湘南ベルマーレと提携を結びビーチバレー専門の部を発足させ、国内では最上級のビーチバレー専用コートを造り、若年層からの強化を図れる環境を用意していただいた事は今後のビーチバレー界の発展に大きく関わっていくと確信している。
2009.03.13 02:26 AM | 投稿者:川合庶