SANNO SPORTS MANAGEMENT 2008年 Vol.1

SANNO SPORTS MANAGEMENT 2008年 Vol.1 FEATURE「ビーチバレー」


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北京オリンピック・ソフトボール決勝戦を解説して金メダルを獲得するギリギリの瞬間まで、言葉にできない「すごい」という思いしかなかった。「勝てる」とか「もしかしたら…」という感情を差し挟むには、あまりにも緊迫したゲーム展開だった。私は選手としてアメリカと何度も何度も対戦し、必ず負けてきた。それに「プレイボールからゲームセットまで、何があるかわからない」ということも身をもって知っていたから。連投する上野由岐子選手の気が、弛むどころかさらに絞り込まれていくにつれて、普段はオーラのあるアメリカ選手たちからオーラが消えていくのを感じた。逆に日本の選手たちは彼女の背中を見て、集中力をより研ぎ澄ましていった。そんな、緊迫感の中でアメリカチームを凌ぐ日本チームの姿を肌で感じながら、私は北京の地で、決勝戦のラジオ解説をしていた。ソフトボールに育てられた私「美佐子、チョコレートパフェご馳走するからキャッチボールしてくれ」小学校に入ったばかりの頃、父から言われたこの言葉がすべての始まりだった。それから父とのキャッチボールが日課になり、小学校4年生で少年野球チームに、中学校でソフトボール部に入った。中学校では毎晩、父に連れられて地元(岐阜)のバッティングセンターで閉店までマシンに向かった。でも、やらされている感覚は一切なく、ただただ楽しくて仕方がない時代だった。高等学校は、当時強かった兵庫の夙川学院に進学した。厳しい練習の日々はそれからだ。夙川学院ではキャプテンとして全国優勝する喜びも味わったが、選抜予選で県代表を逃した悔しさも忘れない。ショートを守る自分の、たった一球の送球ミスで、みんなの努力を水の泡にしてしまったからである。実業団選手としての日々――試合以外の日は同じ練習の繰り返しといっていい。それをマンネリ化させないために、どう工夫するかが勝負だった。そして、ちょっとしたところに意識を置いてやると、今までできなかったことが可能になることに気づかされた。監督になって客観的にソフトボールや選手を見ることができるようになった現在では、単純に好きだということを超えて、私を人として、精神的にも育ててくれたソフトボールに感謝している。そして今度は自分が何かを返していく番だということを自覚するようになった。子供たちに夢を繋ぐために競技としてのソフトボールの魅力は、塁間が18.29mという至近距離で、頭と体をフルに使って、スリリングなプレイをするところにあると思っている。そしてその醍醐味が凝縮されているのが、国を背負って世界と戦うオリンピックの舞台であろう。ソフトボールは、アトランタオリンピック(1996)で正式種目になるまでは、純粋に好きな人達だけが参加していた。その精神も大切にしたいと同時に、オリンピックの舞台を経験した者としては、楽しみだけで終わってほしくないという思いもある。シドニー大会(2000)での銀メダル獲得は、私の中で最高の瞬間であったし、アテネ大会(2004)の代表に選ばれなかった時の複雑な思いもまた、貴重な人生経験になった。そのような理由から、ソフトボール選手が上を目指して、常に挑戦していけるような環境として、オリンピックが絶対に不可欠だと思っている。現在、国際ソフトボール連盟(ISF)では、ソフトボールをオリンピック競技に復活させようとする「BackSoftball」というキャンペーンを展開している。アトランタ、シドニーと、2度その舞台を経験した私も、国際的なその活動に貢献したいと思う。そして国内リーグでは、ソフトボールに魅了されて、「選手になりたい」、「オリンピックに出たい」という子供たちが増えるように、全力の熱いプレイを見せられるように監督業に取り組んでいる。また、湘南ベルマーレの地域活動として、私が小さな頃に経験した、ボールを投げることや、打つことの楽しさ、ひとつのプレイが出来るようになった時の達成感などを、明るく元気に、子供たちに伝えていきたいと思っている。安藤美佐子湘南ベルマーレソフトボールチーム監督-ソフトボールを再びオリンピックに-BackSoftball0819


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